何かを忘れてしまっていた。
別の何かを覚えたのに、それすらも何だったのか分からなくなっていった。



 白い部屋にて



 夢の中で俺は名前もしらないところにいた。
 そこで俺は誰だかしらない人になっていた。目を開けると外は暗くて、窓硝子が部屋の照明で鏡みたいになっていた。少し歩いて見てみると全くの別人になっていた。髪も短くて、目も少し垂れ目になってる。普段の顔に自信があるわけじゃない(ある、なんて言ったら世の女子に殴られる)けど、これはどうしたものだろう。普段より少しは良く見える。
 一瞬だけ、このままでも良いなと思ったけど、こんなわけも分からないような奇天烈な夢はカンベンだ。

 それにしても、俺はいったい誰なんだろう。

 「これは夢なんだ」と分かっているのに目は一向に覚めてくれない。最近はこんな夢ばかり見てる気がする。
 そんなことを考えていても夢は続く。



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 外は真っ暗だけど、それがこの世界の「普通」で外ではいろんな人が歩いていた。俺は大通りに面した家に住んでいて親は帰ってこない(どうしていないのかは分からなかった)。小さい家で独りで住んでいるみたいだ。
 星も月も太陽もなかった。雲が何個か浮かんでいたけれど、それらはみんな真っ白で、黒い空と真っ白な雲がちぐはぐな感じがした。

 俺の仕事は、お屋敷の掃除をしてお金をもらうこと。
 とても大きな屋敷だから、仕事が終わる頃には疲れて動けなくなるほどだ。へとへとになって、店で残り物を安く買って家へ帰る。適当に作った夕飯を食べて風呂に入って死んだように眠る。
 生きていくには何も問題はない。でも、今日が何日で何曜日なのかもわからないような忙しい毎日だった。



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 このまま起きなくて良ければいいのに
 と、毎日のように寝る直前の自分が叫ぶ。このまま死んだように眠って、そのまま意識が沈んだままであればいいのに。祈るように思って、意識はそこで切れた。

 毎日続く夢は、少しずつ少しずつ先へ進む。
 本をゆっくりとめくるみたいに。



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 いつも掃除をしてる屋敷にいるのは3人家族だった。3人でこれだけの部屋を使うと知ったときは腰が抜けるかと思った。どうせだから、と部屋を貸すと言われて丁重に辞退したときは普段の5倍は頭を使った(今思えば、なんで断っちゃったんだろう)。
 屋敷の大体のところを掃除して、昼食を簡単に作ってひとりで食べる。昼にはもう疲れているので無言での作業だ。…といってもここに俺しかいないのだから、話をしようにも相手がいない。

 昼食後は3階の角部屋へ向かう。
 アンティークな戸の取っ手をゆっくりと引く。

 ここの一家は両親が昼間いないから、その間の留守を預かっている。掃除はそのついでだったりする。
 角部屋にいるのは自分より少し年下の子。理由を知らないけれど、部屋から出てくることのない子。
 この広い屋敷の一人息子が俺の話し相手だった。…いや、俺が話し相手だった。

「やあ、こんにちは」

 気の抜けた挨拶をすると彼は顔を上げて笑う

「来てくれたんだ。…ほら、そこにいないでこっちに来て」

 部屋を空けると、家具が真っ白に光を放っている中で(もちろんここも広い。とてつもなく)中央のベットに座って本を読んでいる。とても分厚い本を膝の上に乗せ、耳あてみたいなモコモコのヘッドホンをつけて。
 名前はわからない。聞いたかもしれないけれど、少なくともその時は分からなかった。
 目は澄んだ濃紺で、髪は黒。
 こいつが女の子だったら「お人形みたい」なんて言われるんだろうけど、こいつは男。何に対してかわからないまま「ざんねんだ」って思った。
 やわらかく笑う彼が言う、

「今日はどんな話をしてくれるの?」



 俺は色々と話し始める。ある時は隣町の夫婦喧嘩、自分の家を探したこと、空が青ければいいのに、とか。なんでこんな風にぽんぽんと話が浮かぶんだろう。その時は、白い海の向こう側へ行った話をした。
 彼は楽しそうに聞いてくれる。そうかと思えば呆れて、質問をして、涙を浮かべ、笑って…。二人して大笑いしてお腹が痛くなるときもあった。
 俺は話をしてあげてる立場のはずなのに、それが苦痛にはならない。彼は聞き上手なんだろう。自分まで自分の作った突拍子もない話に面白いとおもってしまうのだから。
 聞き上手な彼に話している時がとても楽しいと思った。楽しくて楽しくて、時間を忘れてしまうほど。



 いつの間にか時間は過ぎていた。
 楽しそうに聞いていた彼が、急に表情を変え、窓の外を覗く。

「…来ちゃった」

 彼の両親(俺の雇い主だ)が帰ってきた。
 こうして話すことは許されていない。偶然この部屋に入ってしまった俺が彼を見つけた。それから、こうして雇い主が帰ってくるまでの間、密かに話をしているんだ。
 露見したときにどうなるのかは分からない。
 言ってしまってもいいのかもしれないけれど(そんなに厳しい人には見えない。罰も与えられないんじゃないかな)、これは二人の秘密なのだ。
 「ふたりだけのひみつ」はとても甘い響きを持っていて、それを共有しているということが何よりも俺の胸に響いた。

「そ、か。…じゃあ今日はここでおしまい」
「残念だな。もうちょっと聞いていたかったのに」
「また明日話してあげるさ。新しい話も一緒に」
「わかった。楽しみに待ってる」

 静かに戸を開けて外へ出る。
 出る直前に振り返ってこの目にこの景色を焼き付ける。忘れてしまわないように。
 まぶしいくらいの部屋にひとりでいる彼を綺麗だなと思う。

 俺は清掃員に戻り、彼は大人しくベッドの上に座る。

「じゃあ」
「じゃあね、カイ」



 戸を閉めた後、俺の名前はカイだったことに気づく。



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 夢はここで途切れた。



 目が覚めたときには、あのやわらかく笑う少年の顔を思い出せなかった。
 しばらくたつと、どんな夢だったのかも思い出せなくなって、気がつくと夢の事なんか思い出せなくなっている。

 なんでもないような一日が終わって、布団の中に入って本を読む。

 そして、また夢へ堕ち、白い部屋の彼へ会いに行く。






071027