「こんな空も悪くない」そう彼は言って消えた。とても粒の小さな雪のように手を伸ばした瞬間に消えてしまった。
 消える瞬間、彼はこちらを振り返って何かを呟いた、ような気がした。口が動いていたのは分かった。けれど音は聞こえなかった。どうしてだろう。距離があったわけではないのに。わからないな。どこか寂しそうな、嬉しそうな、顔を。



真っ白な記憶日記


 彼が消えた後、この世界は何一つ変わらなかった。
 誰の記憶にも残ることなく、彼は消えたのだ。

 自分がどうしてこういうことを思うのか。どうして自分だけが覚えているのか。理由はわからなかった。
 俺にだけ残したいものがあったのかもしれない。もしかしたら、最期に言っていた言葉はそれだったのかもしれない。今となっては知る由もないが。

 徐々に、皆が普通に笑って生きていることが理解できなくなった。
 只々「どうして」が積み重なっていって、答えは何一つ出ないまま、無意味な時間だけが積み重なった。ベッドの上で小さく丸まって考えてもみたけれど、気がついたら気を失うように眠っていた。答えは結局出てこない。
「もう彼はどこにも存在しない」ということだけが、俺にわかることだった。

 あの笑顔はどういう意味の笑顔だったのだろう。
 あの瞳は、眉は、戦慄く唇は。



 彼が消えて世界は何も変わらなかった、とさっき言った。
 …俺の世界も、ほとんど変わっていなかった。

 ぽっかりと抜け落ちていたはずの「何か」は別の「何か」に変わっていて、その「何か」が一体何だったのかもわからなくなって、次第に、俺も何に頭を抱えていたのか分からなくなった。それでよかったのかもしれない。今となってはもう、分からないことだから。


 どうして抜け落ちていたであろうことを覚えていたのか(抜け落ちているという事実しかわからないけれど)。それは、単純な話しで、俺が日記を書いていたからだ。
 だが、日記を読みなおしてみても肝心なところが読めない。文字が消えているわけでもなくて、確かに書いてあるのだけれど、それを認識できなくなっていた。だから、何かが欠落したことを知っているが、何が欠落したのかはわからなかった。


 ここまでの文章を見なおしていて、きっと失ってしまったものが大切なものであったのだと感じる。
 日記は何日もその話題に触れていて、悔いていることは見て取れた。

 それだけ大切なものをどうして忘れてしまったのだろうか。





 彼というのは一体だれのことだったのだろう。




(121101)