人は飛べない





「ねえ。こっち向いてよ。・・・おれは大丈夫だから」
 さっきから何度この言葉を繰り返させているのだろう。一瞬、罪悪感に満たされそうになるが、そう簡単にそっちをむくわけがない。お前が言ったことを忘れたのか?


 ――おれさ、ここから飛べるのかな。
 そう言ってにっこりと笑った君は僕を最悪な気分にさせた。
 青い空はどこまでも青くて、こんな屋上日和ないよね、と会話をしていたはずなのに。どうして、そんなことを言うんだ?
 <何を言ってるのかわからない>と言った顔で問い返すと、
「だって、ここは空がきれいだし。なにより、お前がここにいるから」
 飛べそうな気がするんだ、とまた笑った。

 そんなことを聞きたくなかった。ヘラヘラしてるやつがいきなり切り替えて「飛びたい」だなんて、まるで・・・死にたいと言ってるようなものじゃないか。ここは屋上なんだぞ。飛び降りたって無事であるなんて思えないのだから。

 ゆっくりと、本当にゆっくりとだけど、彼は一歩ずつ屋上の縁へ進んでいく。
 彼を見ていられなかった。足も動かなくなって背を向けることもできなかったから、目線だけど足元へ落とす。涙は出てこない。


 そんな様子を見てまた彼は笑う。「大丈夫だよ。おれは飛べるから」とやさしく言う。
「うそだ。にんげんは飛べないよ」と返す。
 やっと顔を上げて彼を探すと、もう彼はフェンスに寄りかかっていた。手を上のほうへかけてゆっくり昇っていく。
「だいじょうぶだよ」
 何度も繰り返す。耳を塞ぎたくなるけど、それはできない。
「だって、おれ、翼があるから」


「・・・うそだろ」
 その言葉の意味を理解できずに呆然と彼を見ていると、ぱさっと白いものが出てきた(なんだか分からなかった)。じっと目を凝らすと、それは、本当に翼だった。彼に翼が生えていた。
「ほらね」
 少し悲しそうな声で言わないでほしい。
「実はさ、飛ぶの初めてなんだ。ずっと飛ばなきゃって考えてた。・・・けど、やっぱり怖くってさ」
「そんなの・・・別に飛ばなくてもいいじゃないか!」
「うん・・・、そうなんだろうけどね。おれは飛ばないといけないんだよ。きっと」
 気がつけば、彼はフェンスの一番上で立っていた。折りたたまれてた翼は、おおきく広がっていて、とてもきれいだった。

「ここから、何度か試そうとした。けど、いつもできなかった。・・・・・・だけどさ、今日は、お前がいる」
 お前はずっと見ていてくれるから、と言って笑う彼からもう目線は外せない。
「・・・ちょっと試したら、また戻ってくるだろ?」
「わからないよ」
 小さな声だったのに、はっきりと聞こえた。僕の声はなかなか届かなくって声を張り上げないといけない。ほんの少しの風が、彼の声を運んでくれている。
「わからないって・・・」
「そのまんまの意味、だよ。俺もどうするかわからないから」

 じゃあ、いってきます。

 そう言って、彼はすっと飛んでいった。
 飛び立つ直前に「ごめんね」と呟いた声も聴こえてしまった。

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 彼は、戻ってこなかった。
 翼を隠していた彼は、きっと青い世界でのびのびとしているのだと思う。
 僕はそれから、毎日屋上へと上がって、青い空を見ている。


title...Nicolo





071208